新潟県佐渡市
人間国宝 伊藤赤水さんが極める 伝統と革新の無名異焼
土地の魅力
鉱山で町がゴールドラッシュに湧く中、発見された赤土
荒々しい島で生まれた伝統工芸
新潟港から船で最短55分ほどの距離に位置する佐渡島。カタカナの「エ」の字のような形がユニークな佐渡島は、300万年前に海底にあった南北2つの島が海上に出現し、その後長い歳月をかけて流れ出た土砂などで陸続きになったと伝えられています。
北側の島の南側に位置する相川町は、火山活動をしていた太古の名残が残る、荒々しい岩場が海岸沿いに続きます。この町には、佐渡の伝統工芸である“無名異焼(むみょういやき)”の窯元があります。2003年には重要無形文化財の指定を受け、5代伊藤赤水さんが人間国宝に認定されました。
鉱山の恩恵“無名異”という日本唯一の赤土
佐渡といえば、トキと共に有名なのが火山活動の副産物である佐渡金銀山。相川町は佐渡金銀山の麓に位置し、1600年頃から鉱山町として賑わった歴史があります。1989年には休山となり、今は跡地が観光スポットに。佐渡金銀山にある“道遊の割戸”は、江戸時代の開発初期に採掘地だった露天掘り跡。巨大な金脈を掘り進むうちに、山がV字に割れたような姿になりました。
佐渡の伝統工芸である無名異焼は、鉱脈付近から算出する赤土の無名異が19世紀前半に発見され、陶土に混ぜて焼かれるようになったのが始まり。無名異は地下水に流され、鉱道に溜まっており、日本では佐渡金山の周辺のみで採集される稀少な鉱土。この赤土は酸化鉄を多く含むことから、高温で焼くと鮮やかな赤が印象的な焼きものに仕上がり、佐渡独自の文化として脈々と受け継がれてきました。
現在も無名異の採集は可能ですが、採集を行う専門業者が島にいないのが現状です。
「無名異焼の各窯元が地元の建設会社と組み、無名異の採集に行きます。私は作品に岩石も使うので、岩石は自分で探しに行きます。それらを自分の窯の機械室で使える状態に加工するところから、作品作りは始まります」(5代伊藤赤水さん、「」内以下同)。
モノの魅力
200年かけて進化を続ける無名異焼
薬から焼きものへ用途を広げた無名異
皇后陛下雅子様がご成婚された1993年、お祝いの品として新潟県から小和田家に“無名異窯変壺”が贈られるなど、これまで何度も皇室へ献上されてきた無名異焼。これらの作品を手がけているのが、2003年に人間国宝に認定された5代赤水さん。焼きものを生業にして5代目、先祖が佐渡に渡ってからは13代目にあたります。
伊藤家の始祖である伊兵衛が、ゴールドラッシュの恩恵を受けようと佐渡に渡ったのは1640年頃。時代を経て、金銀の精錬時に使うフイゴという道具の送風口(羽口)を焼くことを家業としていた7代目の甚兵衛が、1819年頃に無名異を使った楽焼を初めて作りました。
無名異は中国でも採集され、もともとの用途は胃腸薬や止血のための薬。佐渡でも当時は焼きものに使われるのではなく、漢方薬として幕府へ献上されていました。なぜ薬として貴重な存在だった無名異で焼きものを作ったのか―。佐渡の相川町には金山奉行が置かれ、江戸から多数の役人が派遣されました。この役人から茶道や華道の文化が伝わり、お茶道具の需要も高まったと推測されます。
「焼きものをやっていた先祖がお茶道具を作るようになり、献上品でもあるから稀少な無名異を使って付加価値を付けたのでは。稀少な薬だからありがたみも増し、これでお茶を飲むと無名異の成分が溶け出すのではと言う人もいたようです」。
無名異焼、初代赤水の誕生
1873年に9代目の富太郎が1200度の高温焼成に成功し、現在の赤が鮮やかな無名異焼を確立しました。無名異焼は成型から乾燥まで約30%も収縮し、硬く焼き締まるのが特徴。叩くと澄んだ金属音がして、独特な赤色は使い込むと光沢を増します。富太郎は明治時代初期から“赤水”と名乗るようになり、現在5代まで継承されています。
5代赤水が生んだ3つの作風
5代赤水さんは、1966年から本格的に無名異焼に取り組み、これまでに3つの作風を発表しています。
そのひとつが、“窯変(ようへん)”シリーズ。赤と黒のコントラスト、2色の境界線の絶妙な曖昧さが見る人を惹きつけます。無名異焼が黒くなるのは、炎が焼きものに直接触れてしまったから。
「従来の価値観では、黒くなれば失敗作。でも、炎が描いてくれているようなおもしろさを感じました。炎は女房と同じで、コントロールできません(笑)。繰り返していくうちにパターンは何となくつかめますが、微妙な仕上がりは想定できない偶然の産物。筆で描いた線とは違う“ゆらぎ”のようなものに魅力を感じます」。
このシリーズで1972年に日本伝統工芸展に初入選し、1977年には5 代伊藤赤水を襲名し、大きな転機になりました。
次に発表したのは、“練上(ねりあげ)”シリーズ。色の異なる土を組み合わせて成形し、のり巻きの要領で輪切りにし、断面を並べていく。すると花や鳥の模様になるから不思議です。
「筆で描いたみたいでしょう? でも、土を成形して接着しているから、ゆらぎが線に表れています。日本人は定規できっちり引いたような線も好むけれど、こうしたゆらぎに感情を動かされる人も多くて、つくづく日本人は奥深いなと感じます」。
2009年に発表したのは、“佐渡ヶ島”シリーズ。佐渡の岩場の海岸のように、いびつで荒々しい作風です。無名異だけでなく、玄武岩、流紋岩、安山岩に大別される佐渡の岩石を細かい粒子にして土に混ぜます。作品の中には、“窯変”の技法も取り入れて焼いたものも。
「岩石は種類によって溶ける温度も違うので、ものによっては凹凸ができたり、燃えてなくなって穴が開く部分もあります。器というより、立体物を作っているイメージですね。最近は造形が美しい陶器より、原始的なものからエネルギーを感じるようになりました。私も年老いて、あと何年続けられるかわかりません。そう考えると、やっかいなものは捨てて、何もかも自由になりたいと思いますね」。
人の魅力
先祖、暮らす町、やりたいこと…それらが人を豊かにする
佐渡で生き続ける重圧
5代目、さらに人間国宝という重圧は、我々の想像を絶するものがあります。しかし、5代目赤水さんにとって、佐渡に渡って13代ということの方が重圧だそう。
「佐渡の魅力に引かれて先祖が佐渡に渡って約400年。自分が生きてきた約80年だけでなく、それ以前のことも自分を形成しているのだから、重いです。この仕事は200年ほど受け継がれていますが、大学時代に父である4代赤水が急逝し、祖父である3代赤水から受け継ぐことになった時、家業を守ること以上に佐渡を置いて逃げるわけにはいかないと思いました」。
京都に暮らして見えたもの
5代赤水さんは大学時代だけ佐渡を出て、京都で過ごしています。幼児の頃に太平洋戦争が起こり、在学中に父である4代赤水が亡くなり、自由な学生時代ではなかった。しかし、京都での生活が自らに与えた影響は大きいと語ります。
「京都では勉強は怠けてばかりいましたが、京都の空気感、質感、におい等、私にとって大きな財産となりました」。
先祖それぞれが作った道
海岸からほど近い小高い丘にある“伊藤赤水 作品館”。こちらでは、5代赤水さんの作品はもちろん、歴代赤水の代表作も鑑賞できます。4代までの作品をまとめた展示コーナーの前で、5代赤水さんは柔らかい笑顔になりました。
「祖父である3代は、仏様のように優しい人。だからほら、置物の作品も仏様のような顔をしているでしょう。父が死んだ時も、家業を継げとはひと言も言わなかった。4代も自分に将来を強制することはなかったけれど、戦争世代だから作品の顔も険しいよね」。
新しい道を切り開くための矜持
文化を継承する最高峰である人間国宝となってもなお、新しい作風を生み出す5代赤水さん。伝統と革新のバランスが大切だと説きます。
「伝統を守るのは、先代たちのコピーであってはならないです。継承する技法や考え方はあっても、社会は常に変化していますから、全く同じでは生き残れません。逆に、革新的すぎても伝統から外れてしまう難しさもありますね。
伝統はもちろん意識しますが、私はやりたいことや欲しいものを幼少期から常にイメージしてきました。神様が私たちに与えてくれるチャンスは、皆均等。チャンスに気づくかどうか、だと思います。きっと、潜在的に意識した色々なことがヒントになっていくのでしょう。旅に出てみるとか、自分を違う状況に置くことが大切なのでは。すぐに解決しなくても、そういう状況が重なって道は開けていくものだと信じています」。
5代伊藤赤水さん
1941年、新潟県佐渡郡相川町に生まれる。1966年に京都工芸繊維大学工芸学部窯業工芸学科を卒業後、祖父である3代赤水から無名異焼の技法を継承する。1977年に5代赤水を襲名し、2003年には重要無形文化財保持者(人間国宝)「無名異焼」に認定される。
伊藤赤水 作品館
- 所在地
- 新潟県佐渡市下相川808-3
- 開館時間
- 8:30~17:00(閉館が早まる時期あり)
- 開館日
- 4月第2土曜から11月23日まで無休
(冬季休館あり)
- 撮影
- 菅井淳子
- 画像提供
- 佐渡市
- 取材・文
- 西谷友里加